宗教改革とは
定義
宗教改革とは、カトリック(従来のキリスト教)への対抗運動です。
16世紀の西ヨーロッパで発生しました。
背景
宗教改革の原因は複雑ですが、主な2つの原因を紹介します。
1つ目は、カトリック教会の腐敗です。
当時のカトリックは、教会大分裂や財政難などの問題を抱えており、堕落した聖職者も目立ちました。
2つ目は、活版印刷術の登場です。
これによって本の大量生産が可能となり、聖書や宗教に関する本が、民衆に広まっていったのです。
宗教改革前史
宗教改革が始まるまでの過程を解説します。
ジョン・ウィクリフ
ジョン・ウィクリフは、オックスフォード大学の教授です。
イングランド人で、1320年頃に生まれました。
ウィクリフはローマ・カトリック教会を批判し、聖書を読むことの重要性を提唱しました。
ウィクリフの思想から生まれたロラード派は、イングランドで反聖職者運動を展開しました。
ヤン・フス
ヤン・フスは、プラハ大学の教授です。
フスはウィクリフの思想を支持し、大衆運動を指揮しました。
フスは1415年に火刑に処されて死亡しますが、その後もフス派の活動は続きました。
1419年には、フス派とカトリック勢力の戦争(フス戦争)が起こりました。
エラスムス
エラスムスは、キリスト教の聖職者でありながら、ギリシア・ローマの古典から影響を受けた人文主義者でした。
オランダ人で、1469年頃に生まれました。
エラスムスは、これまでの聖書に間違いが含まれることを指摘し、正確なギリシア語訳の聖書を作りました。
エラスムス自身はカトリック教会を攻撃するつもりはありませんでしたが、エラスムスの活動によって宗教改革の機運が高まっていきます。
宗教改革史①ドイツの宗教改革
マルティン・ルター
マルティン・ルターは、ドイツの神学者で、宗教改革を本格的に開始させた人物です。
1517年、ルターは『九十五か条の論題』を公表し、カトリックの贖宥状(免罪符)の販売を批判しました。
また聖書に忠実であることを重視し、カトリックの諸制度を批判しました。
1522年にはドイツ語訳の『新約聖書』を出版しました。
ドイツ農民戦争
ドイツ農民戦争は、ミュンツァーを中心とする農民の反乱です。
1524年に起こりました。
宗教改革を実行するためには、まず現実社会の改革が必要だという考えから実施されました。
ドイツ農民戦争は、最終的に失敗に終わりました。
アウクスブルクの和議
1555年のアウクスブルクの和議で、プロテスタントは正式に容認されます。
ドイツではカトリックとプロテスタントが共存することになります。
宗教改革史②スイスの宗教改革
ツヴィングリ
1523年、ツヴィングリは、スイスで宗教改革を実施しました。
ルターと同様に、聖書の内容を重視しました。
ジャン・カルヴァン
1536年、フランス人のジャン・カルヴァンが、スイスの宗教改革を勢いづけます。
カルヴァンは、あらかじめ救済される人間は決定されているとする「予定説」を説きました。
また救済と職業的な成功が結びつくと考え、蓄財なども容認したため、カルヴァンの思想は資本主義社会の発展と関係しているという説もあります。
ルター派がドイツのみでしか広まらなかった一方で、カルヴァン派は世界各国に広まっていきました。
宗教改革史③イギリスの宗教改革
イギリス国教会
1534年、イギリスの国王ヘンリ8世は、自身の離婚を認めないカトリックから離反し、イギリス国教会を作りました。
メアリー1世がカトリックへ再改宗するなどの混乱を経験しつつも、1558年にエリザベス1世が即位し、イギリス国教会は安定していきます。
宗教改革史④フランスの宗教改革
カルヴァン『キリスト教要綱』の流入
1536年、カルヴァンの著書『キリスト教要綱』がフランスに流入します。
さらに5年後には、『キリスト教要綱』のフランス語版が出版されます。
こうしてユグノー(フランスのカルヴァン派)が誕生します。
ユグノー戦争/ナントの王令
1562年~1598年、ユグノー戦争が発生しました。
約36年の間に、カトリックとユグノーが、何度も戦争を行いました。
そして1598年、ナントの王令が出され、カトリックとユグノーが共存できるようになります。
宗教改革史⑤対抗宗教改革
対抗宗教改革とは
対抗宗教改革とは、カトリック自身の改革運動です。
参考文献
長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社,1997.
ロバーツ,J.M『図説世界の歴史6 近代ヨーロッパ文明の成立』鈴木董監修,金原由紀子訳,創元社,2003.
木村靖二・岸本美緒・小松久男編『詳説世界史研究』山川出版社,2017.
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