オスマン帝国とは
オスマン帝国とは、トルコ人によるイスラーム系の国家です。
時期としては、1300年頃~1922年まで存続しました。
アナトリア(現在のトルコ)を中心に発展し、イラン以外の西アジア全域、バルカン半島、アフリカ北部などを支配しました。
前史:トルコ人のアナトリア侵入
1071年、アナトリアで戦いが起こり、セルジューク朝がビザンツ帝国を倒します。(マラズギルトの戦い)
この敗北により、ビザンツ帝国のアナトリアでの支配力が低下します。
これをきっかけに、トルコ人はアナトリアへの移住を始めます。
オスマン帝国史①オスマン朝の成立
代表的な君主①オルハン
オルハンは、1326年~1362年のオスマン朝の長です。
アナトリア(現在のトルコ)の北西部を征服し、オスマン朝の基礎を固めました。
また、ビザンツ帝国のテオドラと結婚し、バルカン半島へ進出していきました。
代表的な君主②ムラト1世
ムラト1世は、1362年~1389年のスルタンです。
オスマン朝で初めてスルタンを名乗りました。
イェニチェリ軍団(奴隷で構成される軍隊)を創設し、バルカン半島の征服を進めました。
代表的な君主③バヤジット1世
バヤジット1世は、1389年~1402年のスルタンです。
アナトリアの征服を進め、領土を拡大しました。
また1396年、ニコポリスの戦いで十字軍に勝利し、バルカン半島の支配を固めました。
オスマン帝国史②オスマン帝国の拡大
代表的な君主①メフメト2世
メフメト2世は、1444年~46年、1451年~1481年のスルタンです。
1453年、ビザンツ帝国を滅ぼし、新たな都イスタンブルをつくりました。
また征服活動を進め、バルカン半島とアナトリアを統一しました。
代表的な君主②セリム1世
セリム1世は、1512年~1520年のスルタンです。
1514年、チャルディラーンの戦いにおいて、サファヴィー朝に勝利しました。
また1517年、イスラーム系王朝のマムルーク朝を滅ぼし、カリフを称するようになりました。(「スルタン・カリフ制」の成立)
代表的な君主③スレイマン1世
スレイマン1世は、1520年~1566年のスルタンです。
スレイマン1世は、ベオグラードやロドス島を征服し、ハンガリーを攻略するなど、ヨーロッパ進出を進めました。
そして1529年、ウィーン包囲によってオーストリアを攻撃しましたが、失敗しました。
オスマン帝国史③オスマン帝国の晩年
代表的な君主①メフメト4世
メフメト4世は、1648年~1687年のスルタンです。
1676年、第2次ウィーン包囲を行いましたが、失敗しました。
また神聖同盟(オーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシア)との戦争が始まり、苦戦しました。
代表的な君主②アブデュルメジト1世
アブデュルメジト1世は、1839年~1861年のスルタンです。
タンズィマート改革が行われ、教育や司法なども近代化しました。
また1853年、ロシアに侵攻されるも、オスマン帝国は何とか勝利しました。(クリミア戦争)
代表的な君主③レシャト(メフメト5世)
レシャトは、1909年~1918年のスルタンです。
1912年、バルカン戦争が発生し、オスマン帝国は大半の領土を失いました。
また1914年、同盟国側で第一次世界大戦に参戦し、敗北しました。
代表的な君主④ヴァヒデッティン(メフメト6世)/滅亡
ヴァヒデッティンは、1918年~1922年のスルタンです。
この時代、大きく衰退したオスマン帝国では、内部対立が起こります。
そして1922年、オスマン帝国は滅亡しました。
トルコ共和国へ
オスマン帝国が滅亡し、ムスタファ・ケマルが権力を握りました。
そして1923年、トルコ共和国が成立し、ムスタファ・ケマルが初代大統領となりました。
参考文献
小笠原弘幸『オスマン帝国』中央公論新社,2018.
永田雄三・羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論社,1998.
山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論社,1996.
木村靖二・岸本美緒・小松久男編『詳説世界史研究』山川出版社,2017.
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